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イギリス生活情報誌 
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その栄養価の高さから「飲む点滴」とまで呼ばれ、健康志向の昨今、急速にそのニーズを伸ばしている甘酒。岡山県の食品メーカー「マルクラ食品」の米麹から作る甘酒は酒粕より作るそれとは違い、アルコール分は完全に0%で子どもはもちろん、妊婦や授乳中の人も安心していただける。その製造現場を責任者として取りまとめるのが専務の岡田康男さんだ。曾祖父の時代より引き継がれた米屋が父の代に転身し麹屋に。当初の主力商品は味噌だったそうだが、「麹を使うのだから甘酒も作れるはず」と、甘酒も手がけるようになったそうだ。今やすっかり同社の主力となった甘酒作りにかける思いや、ご自身のお話を岡田さんに聞いてみた。


それなりに努力をした成り行き任せの人生だった



3歳の頃、今は廃園となった。
─専務さんは、生まれも育ちも倉敷ですか?
岡田 そうですね。実は専門学校を出てイオングループに就職し、転勤で京都府とか兵庫県とか、まあ西日本限定ですけど、あちこちに転勤はありました。でも、学校を出るまではずっと倉敷ですよ。

─子どもの頃、何になりたいとか、学生時代に部活に打ち込んだとか、そういったエピソードはございませんか?
岡田 なにを目指していたかと言われると、特になにも目指していない。その時が楽しければよい、といった感じで表を走り回る子どもでした。部活は、中学ではバレーボール。あと、頭を使う方では将棋ですね。これは小学校のクラブ活動です。どちらも、自分なりには頑張りましたよ。

─バレーボールですか。でも、部活は中学だけ?
岡田 高校に入ってからは、バイトが忙しくなりましてね。実は中学時代から、新聞配達してたんですよ。先輩に紹介してもらって。中学生を雇ってくれるところって、なかなかないじゃないですか。新聞配達は、まあOKだったから。高校に入ると、中学でバレーボールやってた連中は、高校でも部活を続けてましたけど、私は学校が終わるとバイト。晴れて高校生になった、今なら雇ってもらえるぞ、ということで。時給700円くらいなものでしたけど、でも、新聞配達よりは実入りがよかった。

─どうしてそんなにお金が欲しかったのですか?
岡田 子どもの頃から、車やバイクに興味がありましてね。16歳になったら免許取れるから、そうしたらすぐにバイクを買おう、と。でも、お小遣いじゃさすがに無理でしょう。なので、朝は新聞配達して、学校へ行って、終わるとバイト。授業中、眠くてかないませんでした(笑)結局、新聞の方は辞めさせてもらいましたね。


小学校入学前の頃、鷲羽山ハイランドにて。
─あれも、大変な仕事なのでしょうね。
岡田 なかなか大変ですよ。配達中に阪神淡路大震災に出くわしましたし。自転車乗ってて、急にハンドル取られて、こけてしまった。

─それは、驚いたでしょう。
岡田 最初は、なにが起きたか分からなくて……あれ、パンクしたかな、なんて思ってたら地面が揺れてる。お隣の兵庫県は大変なことになったわけですが、岡山県でも、あの時は震度5強とか、かなり揺れましたから。そんな経験もしてるので、申し訳ないが辞めさせてもらいます、と。代わりの人がすぐには見つからないからとか、頼み込まれて少し続けましたけどね。

─もうひとつのアルバイトは、どのようなことを?
岡田 イオングループの、フードコートで。こちらは、専門学校に通っている間も、ずっと続けました。学業はさっぱりでしたけど、ベテランバイトになってレジの管理も手伝わされてたからでしょうかね、商業高校に通っていたのですが、簿記会計の授業だけはすらすら頭に入る(笑)。そこで担任が、お前はその方面の専門学校に行って資格を取るのがいいんじゃないかと勧めてくれまして、それで進路が決まった。そして日商の簿記の資格などを取ったわけですが、就職の方も、そのフードコートを管理している部長さんから、他で雇ってもらえる当てがないのなら、このまんまうちで働いたらどうだ、と誘われた。それなら就活も苦労しなくて済みますからね。まあ、万事成り行き任せの人生ですよ。

─その後、家業を継ぐ決心をされたのは、なにかきっかけでも?
岡田 いや、まだまだ紆余曲折がありまして。イオンでは入社してすぐに、研修を受けて店長になってくれ、と。私がバイトしてた時代の店長さんが、実は新婚で、郷里に帰りたがっているとかで、お前が後を引き継いでくれれば帰らせてあげられるし、という話を持ちかけられまして。人助けというほどのものじゃありませんが、お世話になった人にも喜んでもらえる上に、早く出世できるのなら、それもいいだろう、などと深く考えずに引き受けたのですけど、これが甘かった。

─店長はやはり大変だった?
岡田 それもそうですけど、店長になると残業(手当)はつかない、転勤は断れない……今ではブラック企業がどうだとか、色々と言われてますから、おそらく変わってきてるのでしょうけど、当時は、それが飲食業界では当たり前でした。長い目で見ると賃金の面でもかなり損で、体もきつい。そこでツテをたどってSONYの下請け会社に転職しました。

─IT企業?

小学校6年生のオリエンテーリングにて。
岡田 そんな、いいもんじゃない(笑)。コンデンサーを作る工場なんですが、プレイステーションの部品に使われてましてね。今度は残業もちゃんとつくし、日曜日の昼間に外に出ると、ああ、こんなに人出があったのか、とか。それまでは朝から晩まで仕事仕事でしたから……いい会社には入れたな、と思っていたのですけど、今度は9.11の同時多発テロで、またまた運命が変わった。

─阪神大震災に続いて、あのニューヨークでの同時多発テロですか。具体的に、どういうことですか?
岡田 あのテロと、その後のイラク戦争もありまして、アメリカ社会が一時的に、ゲーム機どころではない、という空気になりましたでしょう。実際にSONYもアメリカ向けの輸出を縮小せざるを得なくなったわけです。そうなりますと、私がいた工場では、売り上げの6割以上をSONYの仕事に頼っていましたからね。派遣とか契約社員の工員などは全員リストラされました。

─それで故郷に帰られた、と。
岡田 いえ、もう一段階あります(笑)。私は幸い、上司によほど気に入られていたのか、いずれラインを再建する際の中核要員にするから、会社に残ってくれと言われたんです。やれやれ、というところではあったのですが、関連会社のプレス工場の方に回されましてね。合板を作っていたのですが、プレス機に両足を挟まれる事故に遭いました。もちろん労災は認められましたが、トラウマになってしまって、機械の前には立てない。しかも、しばらくは松葉杖で出勤する有様でしたから。そんな時、父親の方から、そろそろ帰って来ちゃどうだ、と声をかけられたようなわけです。

─そこで、いよいよ甘酒造り。甘酒はお好きだった?
岡田 いえ、あんまり。どちらかと言いますと苦手だったですね(笑)。他に飲むものがたくさんあるし、といった感じで。でも帰郷して、もうこの仕事しかない、と腹をくくったので、とりあえず手当たり次第に飲んでみた、というのが本当のところですね。ただ、飲み比べてみて、あらためてうちの製品の底力と言いましょうか、大手メーカーの製品より、明らかにおいしい。これだったら、うちの商売いけるんじゃないか、と心強かったこともまた事実です。大手メーカーと価格競争したって、勝てるわけがありません。資本力が違いすぎますから。けれども製品力と言いましょうか、品質では明らかに勝ってる。これなら十分やって行けるだろう、と。


高校卒業前に実家の駐車場にて。
─話が戻りますが、麹を扱うご商売が、代々の家業だったのですか?
岡田 いえ。もとは米屋でした。戦後、色々と商売上のしがらみなどがあって、麹の店に看板を掛け替えた、と聞かされています。戦時中、お米は配給制でしたし、戦後は食糧難で、米屋が次々と廃業に追い込まれた中、生き残る知恵だったのでしょう。麹の店として再出発したのが昭和23年のことですから。父親がごく若い頃に、今の営業形態になったわけです。

─なるほど。そもそもお米に縁があったので、酒粕ではなくお米を使う甘酒にシフトしたようなわけですか。
岡田 そのあたりは、微妙に違いますね。たしかに白米や玄米から甘酒を造るのは、昔からあった手法ですが、我が社でもかつては、酒粕から造る甘酒が売り上げの7割を占めてました。酒粕はなんと言っても大量に出ますし、そのままでは一種の産業廃棄物になってしまうものですから、コストがほとんどかからない。酒粕単体では、辛口の日本酒のような味と香りになりますが、砂糖や蜂蜜を加えますと、麹で作った物と同じような、まろやかな口当たりの物ができるようになるのです。

─そうしますと、玄米や白米を原料とした甘酒が主力商品になってきたというのは、なにかきっかけでも?
岡田 ある日突然、というわけではないのですが、時代の変化があったことはたしかですね。20世紀の終わり頃から、健康ブームといったようなことが言われ出したでしょう。実際に団塊世代を中心として、日本が徐々に高齢化に向かって行く中、体に良い物を食べるように心がけよう、という風潮が強まってきましてね。それを受け、徐々にシフトしていったというのが本当のところです。

─体のため、という観点から、お米で作った甘酒のどういう点が、酒粕で作ったそれよりも優れているのでしょうか。
岡田 なんと言っても、糖質ですね。酒粕で作る場合、さきほども言いましたように砂糖を加える必要があって、アルコールもゼロにはなりません。この点、お米をベースにしますと、麹の作用により、デンプン質がブドウ糖に変化しますから、砂糖を一切加えなくとも上品な甘さを出せる。しかもアルコール分ゼロですから、お子様でも飲めますし、さらに糖質が少なくなって、ダイエットにもよい。そのように認知されるようになってきたわけです。こうして、徐々にお米から作る甘酒にシフトし始めた矢先に、神風が吹いたようなことになりまして。

─神風?
岡田 塩麹のブームが起きましたでしょう。あれで、麹を使った食品は、多少高くともおいしくて体によいのだと、広く認知されるようになったわけです。イベントなどで、これは麹で作った甘酒ですよ、と言ってみると、それまで甘酒は苦手だと言っていた人たちも、手にとって下さるようになりましてね。とにかく飲んでいただければ、今まで飲んだことのある甘酒と全然違う、これはおいしい、という評価をいただけるようになったわけです。

─作り手の苦労、といったお話も、お聞かせ下さい。
岡田 まずは味を確立すること。そして、その味を伝承して行くこと。言葉で表現すると簡単そうなのですが、現在の製品の味は、改良に改良を重ねてできたものなのです。匂いや色も、大事ですし。もともと私は、さっきも言いましたように、昔から甘酒に造詣が深かった、という人間ではありませんからね。その分、必死で研究しました。麹の働きでおいしい甘酒ができる、と。ちょっと待てよ、そもそも麹とはなんなのか、というところから勉強したわけです。そうやって10年あまりの試行錯誤の末に、これがマルクラ食品の甘酒の味だ、というものが出来上がってきたわけですが、今度は、それをどう安定的に製造するか。手造りにこだわっている以上、私が作った物と社員の子が作った物とで味が違ったのでは、どうにもなりませんからね。技術を伝えるには、信頼できる社員を育てないといけない。これまた、人間は十人十色ですからね。誉められて伸びるタイプの子もいれば、悔しがることがバネになる子もいる。ですから、従業員教育が非常に大事になってくる。でも私の場合、20歳そこそこの頃から店長になって人を使う側になった経験があります。この子はきつく叱った方がいいのか、それともショックを受けてへこんでしまうタイプなのか、割と早く見極めがつく。成り行き任せの人生で、残業も就かない仕事をさせられて、なんて言いましたけど、今にしてみれば、よい訓練を受けていたことになりますね。

─麹の勉強をしたことも、大いに役立っているのでしょうね。
岡田 うちのお客様は、健康志向で色々と詳しく知りたがる方が多い。何度くらいで飲めばいいんですかとか、凍らせてはいけないんですか、とか、問い合わせが具体的なんですよ。そんな時、具体的に答えられないと、信用問題になりますからねえ。

─私も知りたいです。
岡田 甘酒の適温ですか?麹の中には120種類くらいの、体によい影響をもたらす菌が含まれているのですけれど、ボイルするとそのうち7割は死んでしまいます。逆に、冷やしすぎるのもよくない。菌の働きがもっとも活発になる、50度前後、せいぜい70度まででお飲み頂きたい、ということですね。

─最後に、東京など首都圏では、御社の製品はどこで買えますか?
岡田 東京では今のところ、オーガニック食品の専門店などに卸しています。販路を拡大したいのは山々ですが、オートメーション化した工場で大量生産する、というわけにも行かないもので。お求めは当社の通販サイトをご利用いただければ、早くて確実です。




マルクラ食品 有限会社
TEL/086-429-1551 Eメール/ info@marukura-amazake.jp
ホームページ http://www.marukura-amazake.jp/


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