ヒットの予感!! 2019


イギリス生活情報誌 
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イギリスに拠点を置き、日本、そしてヨーロッパの各国を結ぶ国際運送会社「コヤナギ・ワールド・ワイド」にて、現在会長職の任にある小柳建二さん。1970年代に英語を学ぶために渡英し、その後は現地の運送会社でノウハウを積み独立。同社を立ち上げた。マイケル・ガーソン社と共に、エリザベス女王から輸出貢献奨励賞も贈られ、今ではイギリスの他、ドイツ、フランス、オランダ、ベルギーにも展開し、海外引越しを始めとする質の高いサービスを提供している同社。その経営より一線を退いた現在、小柳さんご自身のこれまでを振り返っていただいた。


単身渡英から45年 元首相も愛したサービスを提供



ペリリュー島に日本軍が構築した地上施設を攻撃する米軍機。
─会長のお生まれは何年でしょうか。
小柳 昭和22(1947)年。今年71歳になります。去年、70になったのを機に会社の経営は息子に代替わりしました。

─古希とは思えないほど若々しいですよ。ご出身は?
小柳 長野県下伊那郡売木村……と言われてもぴんと来ないでしょうな。愛知県との県境に近いところで、標高が800(メートル)から1000近くあるんです。最近は避暑地として注目され始めていると聞いています。

─涼しいところなのですね
小柳 高原ですから。でも、その分、冬は氷点下20度の中で暮らすことになりますが。

─ご実家は農家ですか? ご家族は?
小柳 まあ、家族関係はいささか複雑で……まず、私の母親というのは再婚なのですよ。最初、私の父にとっては兄嫁だったのですが、兄がパラオ(南太平洋のペリリュー島。「地獄の攻防戦」と呼ばれた太平洋戦争最大の激戦地のひとつ)で戦死したんです。乳飲み子を残してね。で、途方に暮れていた母に、周囲が、生きて帰ってきた弟との再婚を勧めた。戦後の混乱期には、よくあった話らしいですが、そういう経緯で、両親とステップブラザー、それに妹も産まれたわけです。ただ、父親も戦争から戻って、体をこわしていましてね。ほとんど働けなかったんです。母親がわずかばかりの田畑を守っていたのですが、ひどい貧乏でしたよ。私ももちろん家を手助けしました。


長野県飯田市にある国の名勝、天竜峡。船で下ることにより、渓谷美を堪能できる。
─でも、進学できた。
小柳 長野は教育県と言われてましてね。勉強が出来る子には、奨学金もらって上の学校に行きなさい、と必ず勧めていたんです。高校は、長野県の飯田市にありまして、ちょっと通学は難しい。私がまず家を出まして、最終的には家族全員、家も田畑も処分して飯田市の近くに移ってきました。幸い、この頃には、父親の体調が少しよくなりましてね。製材所で働けるようになったし、母親も、飯田市には天竜峡という有名な観光地がありますでしょう。そこの案内所の職を見つけました。私も父親の仕事を手伝ったり、遊んではいられませんでしたが、当時は日本全体が貧しかった頃ですし、自分の生まれ育ちが不幸だと思ったことはありません。奨学金で高校へも行けましたし。

─そして、東京で就職なさったのですね。
小柳 ええ。高校の方にリクルート、当時の言い方では就職案内の人が来ますでしょう。最初に私が話を聞いた方というのが、長野県出身者だったんですよ。これもなにかの縁だろうということで、とりあえずサラリーマンになった。貿易関係で、会社の方でお金を出して、英語学校に通わせてくれるというのも魅力ではありましたが。

─そうしますと、当時から海外志向があったのですか?
小柳 僕らの年代はねえ、海外に憧れる気持ちがことのほか強かったんですよ。学生時代の友人もみんな、いつか海外に行ってみたい、と口々に言ってました。


イングランド南西部にある海の町ブライトン。老後を過ごす地として英国人憧れの町である。
─たしかに、小田実の『なんでも見てやろう』という本がベストセラーになったとか、そういう時代でしたね。でも、どうしてイギリスに?
小柳 これもおそらく世代的な問題で、我々団塊の世代というのは、なんとなく反米的なんですね(笑)。アメリカあんまり好きじゃない、行くならヨーロッパだ、と。ヨーロッパと言っても広いですが、英語をマスターしたいと思ったら、イギリスしかないだろう、と。

─具体的に、イギリスに渡ったきっかけは、どのようなものだったのですか?
小柳 当時は今ほど移民の問題とかうるさくなかったので、アルバイトしながら英語の勉強ができますよ、といった形での、英語学校の募集があったんです。そこで友人と一緒に行くことにした。イギリスに渡る手配は順調だったのですが。日本国内で、いささか問題がありましたね。

─ご家族に反対されたとか、そういうことですか?
小柳 家族と言うより親戚ですね。親族会議が開かれて(笑)、私は一応、長男という立場ですし、両親の面倒は誰が見るんだ、みたいな定番の話です。なので私も、2〜3年だけ行かせてと、定番の言い訳を持ち出すしかなかった。当時は、本当に英語をマスターしたら帰国するつもりでしたので、あながち嘘をついたことにもならないと思ってますが。

─おいくつの時でした?
小柳 1973年だから、25歳の時ですね。その年の誕生日で26か……初めての留学としては、遅い方でした。


マーガレット・サッチャー氏の政治生活30周年記念パーティーにて。
─イギリスのどちらに?
小柳 最初に住んだのは、ブライトンのホームです。まわりは老人ばかりで、とにかく飯がまずい(笑い)。当時のイギリス料理の評判ときたら……この20年くらいで、ずいぶん良くはなりましたけど。とにかく、まずくて耐えられないから、連日チャイニーズのテイクアウェイを買ってた。その結果、手持ちの金がすぐに底をつきましてね。列車でヴィクトリア駅まで直通ですから、年中、駅周辺の仕事を探しに出かけたんです。でも当時、日本レストランとかはまだ少なくて。仕方ないから駅で寝たりしてたんです。ところが、朝の4時頃になって、なんと駅前に、24時間営業のレストランがあることに気づいたんですよ。当たって砕けろ、とばかりにマネージャーに話をしたら、ウェイターならいい(雇う)よ、と言われまして。23時から7時までの夜勤で、帰宅して仮眠してから午後、学校に行く。こういう生活を、それから3年続けましたね。

─ちなみに当時のバイト料は、どれくらいでした?
小柳 時給1ポンド。でも、当時のポンドは700円から750円くらいでしたから、至極まっとうな給与で、おまけにチップがもらえた。こっちは英語がよく分からなくて、注文のやり取りまでトンチンカンになって、よく客に笑われたんですけど、チップをはずんでくれる客も多かった。こりゃあ、やめられないな、と。

─たしかに、1970年代ですと、日本でも大学生がファミレスでバイトしたような場合、時給400円とかでした。3年間、そのレストランで働いたのですか?
小柳 いや、そこは2年。最後の1年は、チャイニーズのもやし工場でね。時給も1ポンド超えたので、生活費から学費までバイトでまかなえるようになった。食事がもやしばかりになったけど、ブライトンのイギリス料理ばかりよりはましだろう(笑)みたいなね。


1982年、倉庫のオープニングに来られたマーガレット・サッチャー氏。右から2人目が小柳さん。
─そうしますと、イギリスで運送事業に関わるようになったのは、どういう経緯で?
小柳 友人を介してコーストンさんというイギリス人と知り合ったことが、最初のきっかけということになります。この人は、戦時中ビルマ(ミャンマー)で日本軍と戦ったんですよ。当時はまだ、そういった戦争の記憶が残っていて、日本のことを良く思わないイギリス人も結構いた。パブで嫌な思いをさせられたりして。ところが、このコーストンさんは、自身も対日戦争の経験者でありながら、奥様は日本人で、日本人や日本文化を非常にリスペクトしてくれていたんです。こんなイギリス人がいたのか!、と驚かされ、感激させられた。自分もイギリスに残りたいな、と考えるようになったきっかけですね。

─そのままイギリスに残ることができたのですか?
小柳 世の中それほど甘くはない(笑)。日本に家族もいましたしね。ひとまず帰国して、結婚しましたし……。ロンドンでの最初の3年間、日本女性と文通してまして、それが今の妻ということになるのですが(笑)、まあこのへんで踏ん切りをつけないと、ということで結婚し、親類縁者には、あと3年だけ自由を下さい、と頼み込みました。

─奥様のご家族も、さぞや心配されたでしょうねえ(笑)
小柳 それはもう(笑)。でも、それだけにこちらは必死でね。今度こそ定職に就かなければ、と。そうこうするうちに、コンテナ会社で働いていた知り合いから、マイケル・ガーソン社を紹介されたんです。当時はイギリス最大手の運送会社で今でも大きい。この会社が、極東担当者を捜してる、と言われて、すぐ面接を受けたんです。


1982年、オープニングに来られたお客様。
─それが、日本人相手の引っ越し業務を始めたきっかけですか。
小柳 そういうことですね。面接で言われたのは、結果が出れば労働許可証を取って正社員に登用できるよ、ということだったので、必死でシティを歩き回りました。

─自信はあったのですか?
小柳 いや、やるしかない、という気持ちは強かったのですが、自信と言われると……最初は、日本人相手の引っ越し業務だなんて、意味分からん(笑)。こっちは貧乏留学生でしたから、家族で、家財道具一式持ってイギリスに来るような日本人が、そんなに大勢いるのかな、なんて疑問に思っていたのが、正直なところですよ。ところが実際にシティを歩いてみたら、いるわいるわ(笑)……飛び込みの営業ですが、総務担当者に名刺を渡して、引っ越しの手続きが全部日本語でできます、というプレゼンをしたら、たちまち問い合わせの電話が次々と。私はまだ28歳か29歳だったのですが、この部門の責任者に抜擢されまして、しかも人手が足りなくなった。日本からスタッフを呼び寄せることにしたのですけれど、折悪くその頃から、ビザの問題が少しずつやかましくなってきてまして。困っていた時、サッチャーさんの手を借りることができたんです。

─マーガレット・サッチャーさんですか? 元首相の?
小柳 ええ。そのビジネスの拠点を置いたのが、ロンドン北部のフィンチリーで、昔から日本人も多く住んでいて、ビジネス上の利点もあったのですが、実はここ、サッチャーさんの選挙区でもあったんですよ。そして、ガーソンさんがサッチャーさんの有力なサポーターでもあった。まあ、そういった縁ですね。サッチャーさんに頼んだら、翌日にはビザが下りることになった(笑)。少し後の話になりますが、会社の倉庫にサッチャーさんの私物を預かったりもしました。イギリス人スタッフは土曜日はまず働きませんが、私は土曜日も出勤して色々と雑用を……なので、サッチャーさんが土曜日に荷物の整理に来ると、挨拶して言葉を交わすようになりましてね。後に新しい倉庫が出来たときには開所式のセレモニーにも来ていただきましたっけ。

─独立を決意されたのは、いつ頃、どういうきっかけですか?
小柳 特別なきっかけはないのですが、必死で日本人相手のビジネスを開拓して結果も出した。それなら、いつまでも人に使われるのではなく、一旗揚げるのもいいんじゃないかなと、こういう野心が出てきただけの話ですよ。でも、会社としては、有能な人材を手放したくなかったんでしょう(笑)。別会社を立ち上げて、パートナーとしてやって行こうよ、と口説かれましてね。そうして立ち上がったのがコヤナギ&マイケル・ガーソン社。1995年まで、この社名で営業しておりました。


アンティーク家具などデリケートな品々も丁寧に心を込めて輸送。
─でも、最終的には独立されたわけですね。
小柳 そうなりますが、前向きな話ばかりではなくて、1990年頃から、この国の景気が悪化してきましてね。そこへ日本のバブルもはじけ、パートナーとしてやって行くメリットが乏しくなってきたんですよ。どの会社もロンドンでの営業を縮小して、家族連れの駐在員を減らして独身者と交代させたり。必然的に引っ越し業者の仕事も減った。そうなってくるとイギリスの会社は、なにしろ資本主義の本家ですからね。割り切るのも早い。在外の日本企業全般に言えることだと思いますが、国内の中小企業以上に、景気の動向に左右されるのです。2000年代に入っても、また景気後退に見舞われて、提携していた同業者が廃業してしまったり、うちでも作業員を解雇したり……なにも悪くないどころか、会社のために頑張ってくれていた従業員の首を切るのはねえ。経営者として、あんな辛いことはなかったですよ。

─当時すでに、イギリス以外でもビジネスに乗り出していたのですか?
小柳 ええ。ドイツ、オランダ、ベルギーと、現在の支社はすでに全部立ち上がっていました。

─そうしたご苦労を乗り越えて、今があるわけですね。最後に、日本人の引っ越しはイギリス人のそれとどのように違うものなのか、お教え下さい。
小柳 最大の違いは食器ですかね。平均的な日本人駐在員の家庭では、イギリスの家庭の3倍くらい食器を揃えていますし、なおかつ食器類を非常に大事にします。このビジネスをはじめてすぐに人手が足らなくなったというのも、僕が営業だけでなく、作業現場にも顔を出していたからでしてね。イギリス人スタッフが家具の梱包をしている間に、僕が日本式に食器類を丹念に梱包してたんです。これがお客様から好評をいただきましたし、その後の、アンティーク家具や英国車の取り寄せビジネスにも生かされたわけですから、結果的には大正解だったわけですね。


イギリスでの信頼も大きく、アンティークイベントではおなじみに。
─はじめに、経営の代替わりをされたとうかがいましたが、なにか変化を感じることはございますか?
小柳 先ほどの話の繰り返しになりますが、私がこの国に来た頃と比べて、景気を含めた経営環境が、だいぶ変わってきていますね。直近の具体例で言いますと、うちはクラシックなイギリス車を日本に送る仕事も、ずっと手掛けてきてたのですが、ランドローバー・ディフェンダー(もともと軍用車だったが、女王も狩猟などに際して自ら運転していた。『クイーン』という映画にも登場する)という、主力商品とも言える車が、3年前に生産中止になってしまったり。でも、そういった環境の変化にも柔軟に対応して行けるのが、日本企業の底力でしょう。私は、日本企業の未来を信じたいですね。




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