ヒットの予感!! 2019


イギリス生活情報誌 
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大器晩成とよくいわれるが、「株式会社 唐澤建築設計一級建築士事務所」の代表取締役である唐澤さんは、まさにその人であるといえるだろう。社会人になってから長年にわたって不動産会社に勤務。その中でいつしか建築士を目指すようになり、30歳を過ぎてから工務店に転職。現場で働きながら実務を覚え、難関である一級建築士の資格を取得したのは40歳を過ぎてから。そして2010年に今の事務所を設立した。現在では建物の設計のみならず、リノベーション、そして今や不動産売買に欠かせない建物状況調査と多角的に業務を行っている。そんな唐澤さんに半生を振り返り、お話しを伺った。


団塊の世代ど真ん中の人生を歩んで



ベビーブームの頃の小学校は1学年2桁のクラス数、50人~60人学級で教室がすし詰め状態というのもざらであった。
ーご出身はどちらですか?
唐澤 生まれは東京なんですが、父の実家が長野県にありましてね。その関係で、3歳まで長野で育ちました。それから、再度一家で上京しまして、育ったのは東京都下の東久留米市です。

ー小学校もそちらで?
唐澤 ええ。小中と。

ー当時、大人になったらこんなことをしたいとか、夢はありましたか?
唐澤 正直、何もなかったですね。僕らはいわゆるベビーブームの世代でしてね。小学校・中学校と、教室が満員と言うか、とにかく人数が多かった。新設校がどんどんできるという時代で、私なども4年生までは東久留米第一小学校というところに通ってたのですが、5年生の時に新しく出来た学校に移された。そしたら、上級生がいなくて。

ーどういうことでしょうか。
唐澤 まあ、少子化とか言われてる今では考えられないでしょうね。学校をどんどん作って、地域の余ってる子どもを収容したんですが(笑)、教育委員会の方で6年生だけは……転校させなかったんです。温情なのか何なのか、今まで通った学校を卒業させてあげましょう、ということでね。そういうわけで5年生なのに最上級生になって、僕は学級委員長にもなりました。

ーご自分で、やりたいと手を挙げたのですか?
唐澤 いえ、単なる成り行きで。でも、新設校を作ったはいいけど、体育館の敷地が確保できなかったんですね。結構広い道路を挟んだ反対側に体育館が出来たんです。これじゃ危ないからと言うんで、両方の敷地を歩道橋みたいな、僕らは「空中渡り廊下」なんて呼んでたんですが、それでつなぐことになったんですね。それが完成した時には、生徒代表みたいなことで、市の偉い人たちに混じってテープカットに参加しましたっけ。

ー貴重な経験ではないですか(笑)。中学も新設校ですか?
唐澤 そうですね。1年と2年はそれぞれ6クラスずつ、1クラスが45人とか47人とかいましたかね。小中学校の思い出は、とにかく人口密度が高かった(笑)。あと、中学では野球ですね。中学野球は軟式でしたけど、東久留米市の大会で優勝して、都大会も決勝まで駒を進めたんです。決勝戦で勝っていれば、次は全国大会だったんですが、それはかないませんでした。


中学生の頃は野球に打ち込み、快足でならしたという。
ーでも、すごいですよ。伝統のない新設校でしょう。
唐澤 まあね。私も結構、活躍したんです。トップバッターで、今で言うイチローみたいなもんですよ。当時50メートルを6秒前半で走れましたからね。内野ゴロでも結構な確率でセーフになった。すると2番バッターは、最初から振らない。私が盗塁するのを待つ。さらに3塁へも。3塁に盗塁するというのは、なにしろキャッチャーから近いので非常にリスキーなんです。でも私は何度もやってのけた。ノーアウト3塁になってしまえば、浅い外野フライでも、ホームインしちゃいますから。実際に私は、東久留米の大会で盗塁王にもなったんです。

ーそれはすごい。女子にも人気があったのでは?
唐澤 いや、それほどでも(笑)。……でも、こんなことがありましたね。実はその都大会の決勝戦は、日程の関係で平日だったんですよ。授業中に、実は今から試合なんで、と。先生も、ああ校長から聞いてるよ、がんばれよ、と送り出してくれた。で、試合が始まってすぐ気づいたんですが、なんとバックネット裏に、うちの制服着た女子生徒が何人もいるんですよ。エスケープして応援に来てくれたんですね。

ー昭和の青春ですねえ(笑)。それだけの活躍を見せたなら、高校野球からスカウトなどは?
唐澤 ありませんでした。当時はあまり、そういうことをやらなかったんじゃないのかな。僕自身、高校生になったら野球以外のことをやりたい、と考えるようになってましたし。

ーそれは具体的にどのような? 今のお仕事につながることですか?
唐澤 直接つながってはいませんが……野球と並んで機械いじりが好きになりましてね。国立工業高専への進学を目指したんです。これ、結構難関校でしてね。機械科、電気科と色々ありまして、各科の定員が40名ですけど、競争率は電気科が一番高かった。なおかつ偏差値が60以上ないと、学校の方で受験させてくれないんです。なので勉強も必死で頑張って、直前の模擬試験ではぎりぎり合格点に達したはずだった。でも最終的には駄目でして、うちには私立に通う金なんかないから、滑り止めの都立校に入った。

ーどんな高校生になったのですか?
唐澤 一口で言えば、やんちゃ。いや、当人はとりたてて悪いことをしているつもりもなかったんですけどね。学校でバイクは禁止ということになってたんですが、やっぱり、女の子を後ろに乗せて走りたいじゃないですか(笑)。親からお小遣いもらえなかったんですが、それを逆手にとってバイトに精出してお金貯めましてね。内緒で買ったんです。友達の家に駐めさせてもらってたんですけど、最終的にはバレた。

ー見つかったんですか?
唐澤 いえ、笑われると思うけど、試験の日に遅刻しそうになりましてね。バイクなら間に合うだろう、と。学校の近くにこっそり停めておけばいいや、と考えて。それで、前を走ってる先生のバイクに気づかずに追い越してしまった(笑)。学校でも家でも、たっぷり怒られましたっけ。

ーそうしますと、勉強はそっちのけで?
唐澤 いえ、人並みにはしてましたよ。でも、公立校は大学推薦枠も少ないし、最初に言ったように、僕らの世代は何やるにしても競争率高いしで、結局、浪人することになってしまった。これが間違いの元でねえ。駿台予備校というところに通ったのですが、予備校は行くだけ。受験勉強よりも麻雀に精を出すようになった。結果、二度目の受験も駄目で、おまけに一緒の予備校に通った友達は、東北大にさくっと受かってダブルショック。高専を受けた時の夢よもう一度で、工学系の大学を出て、エンジンの設計とかをする人になりたかったのですが、夢破れた。経済的な理由もあって、結局、大学へは行きませんでした。


一生の買い物である家を購入しようという人々の想いに寄り添いながら、日々業務に精を出す唐澤さん。
ーそして不動産会社に就職されたわけですね。その理由は?
唐澤 これまた、おかしな話と思われそうなんですが、その当時、お年寄りが不動産屋にだまされて……などというニュースがよく流れまして、うちも一応は持ち家だったんですね。ローンが山ほどありましたけど。そんなこんなで、父親と相談して、宅建(宅地建物取引士)の資格くらい取っておいた方がいいのかなあ、怖い世の中だからなあ、なんて話になったんです。結局、父親は受けたものの不合格だったんですが、私は、どうせならと不動産屋に就職しまして、本をどっさり買い込んで、独学で何とか合格しました。

ー不動産の営業をしつつ、宅建も合格した。収入も大幅アップですか?
唐澤 多少の資格手当はつきましたが、あの業界は昔も今も、基本的に出来高払いなんですよ。本給は微々たるもので、営業歩合というのが大きい。それも、契約が取れないとガソリン代くらいしかもらえないのですが、成約したならば、20代前半の若者にしてみたらびっくりするほどのお金がもらえる。そういう意味では、やりがいは感じてました。ただ、当時の東久留米はほとんど田舎で、物件情報にも地元の人間模様が絡んでくる。色々な意味で面倒くさかった。加えてその頃、今の家内と知り合いまして、結婚話が出てきた。それを機に別会社に転職する決心をしたんです。

ー具体的に、どういうことですか?
唐澤 相手の親がね……不動産屋なの? みたいな反応で。うまく言えませんけど、女の人が水商売やってたら、嫁に貰うのはどうなんだ、みたいな目で見られたりするじゃないですか。それだったら、一部上場企業なら問題ないだろう、ということで、マンションのブランドで有名な会社に途中入社することにしたんですよ。宅建持っていたおかげで、すぐ入社させてもらえました。ところがこの会社、当時から業界では影で色々と言われていたんですけど、ブラック企業そのものでしてね。コンプライアンスもへったくれもない。朝礼から始まって夜遅くまで、ノルマがとにかくきつい。最初にやらされたのはチラシ配りですけど、1日3回に分けて3000枚配りましたからねえ。入社した時に革靴を新調してたのが、1週間で底がすり切れてしまって、2週間目には靴の中が血の海。いや、これ大げさに言ってるわけじゃないんですよ。歩くたびにクチュクチュと音がしました。上司に、もう歩けません、と泣きついたら電話営業に回された。この部署はこの部署で、何度も電話をかけた相手にまた、ですから、社名を全部言い終わらないうちにガチャンと切られたことが何度もありました。

ーそれじゃ、続きませんねえ。
唐澤 続きませんよ。成果主義と言えば聞こえはいいですけど、そういう部署に回された時点で、出世の見込みはなくなったわけですしね。それだけではなく、マンションを売り歩いてるうちに、なんだこの無味乾燥な間取りは、こんなところに自分が住みたいか、という疑問を抱くようになったんです。不動産屋の営業は、ただのサラリーマンには違いありませんけど、商売人でもあると考えていましたからね。商売人が、商品に自信と誇りを持てなくなったら終わりじゃないですか。もともと私は、何かを設計する仕事に就きたいと思っていたわけですし、こうなりゃ、自分で家を設計して売る仕事をしてやろうじゃないか、と。


現在、唐澤さんは、不動産売買の際、物件に瑕疵(かし)がないかどうかを専門家として調査し、報告書を作成する建物状況調査部門に注力している。
ーそして工務店に転職されたのですね。再チャレンジ、いや、再々チャレンジですか。
唐澤 まさに、そういうことになります。人生、夢にチャレンジする機会は何度もある。あきらめなければ運も巡ってくる。私は、30過ぎてから工務店に転職し、現場で実務を覚えながら勉強して、40過ぎて一級建築士の試験に合格しました。今の、唐澤建築設計を立ち上げたのは2010年のことです。

ー一級建築士と言えば、合格率10パーセントあるかないかの超難関。それもこれも、理想の住宅を設計したいという思いからなのですね。
唐澤 ひとつ付け加えさせてください。自分の理想を押しつけてはいかんのです。建築家というのは、家を設計して完成、引き渡しが済んだら仕事が終わりではなく、あくまでもお客様が家を建ててからの人生に寄り添って行くのが仕事なのですよ。その人生の序章を描くのが家の設計だという考え方です。だからこそ、中古住宅のリノベーションや、不動売買に先駆けての建物状況調査も立ち上げ、今や事業の柱になってきています。社会人になってからいろいろと勉強もさせていただいて、何とかここまでやってこられました。ずいぶん遠回りをしたように思われているかも知れませんが、私自身はあっという間だった気がしますよ。皆さんに喜んでいただける仕事ができることが、何にも代え難い喜びですからね。まだまだ勉強と精進。これからですよ。




株式会社 唐澤建築設計
TEL/03-5935-44 Eメール/karasawa@kac-tokyo.jp
ホームページ http://www.kac-tokyo.jp/


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